タニンゴトと友達

他人が自分とは関係ない"他者"であると強く感じるようになってきている(気がする)。


街でふと目にする喧嘩中のおっさんたち、つらそうにしてるホームレスを、子供の時より、はるかに、自分と関係のない他者だと感じる。
自分が持ってた生徒の合格だって、もちろん落ちたら残念だし受かったらめちゃくちゃ嬉しいけど、大学1年の頃持ってた子の結果を聞いたとき抱いた感情と、今年結果を聞いたときに抱いた感情には、他人の結果としての感情みたいなものが強くなった気がする。その子の結果を自分自身のように嬉しい/悲しいと感じる気持ちが薄れたというか。なかなか言語化するのは難しいけれど。


こう感じるようになった原因はイマイチよくわからないけれど、きっと、この傾向は年がたつにつれて強くなっていく気がする。それに寂しさも感じる。


アダム・スミス?によれば、自己の利益追求が適切な資源分配を促すらしい。だったら俺を含めたこの世界の各個人が、他人を"他者"と感じて、自己の幸福化の最大化だけを目指せば、俺も社会も幸せになれるんかな。そんなことはない気がするけど。だって自分の大事な人の幸せってめっちゃ自分にとっても幸せじゃない??
でも他者の幸せ全てを俺の幸福と感じられるほど、俺はできた人間ではない。


まだ皆には言えないし言うことなどないかもしれないけど自分の中ではこの半年くらいでわりと大きな決断をして、その時に、「自分の人生やからな、親他人になんも言われる筋合いはないな」、と強く思ったからだろうか。友達に"友達としての意見"を求められたときでさえ、「他人やからなぁ、その友達自身が納得すればええんちゃう」みたいに考えて、なかなか友達として踏みこんだことが言えなくなった。友達は、俺に"友達としての意見"を求めているのに。つまらない人間なのかなぁ俺は、と思う。かといって、俺の言葉がどう伝わるかなんてわからないから、俺が"友達としての意見"を明確に伝えるのが必ずしも正義だとは思わないんだけどさ。


でも、だから、"友達としての意見"をどう伝えるのか、もしくは伝えないのか、に真摯に悩み続ける人生ではありたいと思う。"友達としての意見"を言わないことに、「他人なんだから当たり前っしょ」とも思いたくないし、「いやそれは絶対こうしたらいいっしょ」みたいなオナニーもしたくない。
どう伝えるのか、伝えないのかに、きちんと向き合って悩み続ける人生ではありたいな。このままタニンゴトの思考が友達の領域までも蝕まないように、でもある程度タニンゴトではあるように、なんてことを思う、二日酔いの朝。



コメント

このブログの人気の投稿

肥大化したプライドと就活と負け

なぜ仮面浪人したの?に対するなるべく正直な答え

ダイタクのラストイヤーを終えて